12.

 

 

 ガラスを二枚隔てた向こうに、白く霞み始めた春の空が見える。
 私が人の身体を失ってから、もう半年以上。 息をしない体や、食事の無い生活をようやく
受け入れられるようになってきた。
  
 不意に、後ろから何かが私の肩を突付いた。
 ガラスを磨く手を止めて振り返ると、鮮やかな色の小魚が私の肩に付いた餌の欠片をついばんでいた。
 私は今、大きな大きな水槽の底に立っている。
 ここは国内一の規模を持つ水族館。 重い金属の身体になっても、泳ぐ事へのこだわりを
捨て切れなかった私は、水槽内のメンテナンス係として働いている。
 
 掌に餌を乗せて掲げると、カラフルな熱帯魚たちが一斉に集まってきた。 日に何度か見せる
お客さんへのサービスだ。
 舞い散る花びらのような魚達と、その中心に立つ不釣合いな金属の身体。
 ガラスの向こうで、黒山の人だかりが歓声を上げた。
(あっ)
 その人ごみの中で、コートを着た少女が二人、小さく手を振っている。
 彼女達の袖口と襟元から、少しだけ白と黒の金属の肌がのぞいていた。 
(ハツミさんにサチさん…来てくれたんだ)
 思わず、二人へ手を振り返した。

 

 

 

 その日の営業時間が終わるまで、ハツミさんとサチさんは待っていてくれた。
 大急ぎで身体中の魚臭い水を洗い流して、ドライヤーで乾かす。 金属の肌の上にコートを羽織って、
エントランスホールに駆けつけた。
 
「ユカリさん、お久しぶり。 元気にやってるみたいね」
 ハツミさんが笑顔でベンチから立ち上がる。
「お久しぶりです。 今日は警察のお仕事はお休みですか?」
「あなたの様子を見に来て、いろいろお話をするのが今日の仕事よ」
「どう? 仕事仲間の人たちとうまく付き合えてる?」
 脇からサチさんが、なつっこく身体を寄せてきた。
「は、はい、最初の頃に比べれば…私の事を、普通の人間として接してくれるようになりました」
「よかったじゃない。 私がこの身体になってから学校生活に戻ったときは、それはもう大変で…」
 そう言いながら、サチさんの顔は笑っている。
 肉体的に成長する事のなくなった私たちは、三人とも同じくらいの歳の少女に見えるけれど、
ハツミさんとサチさんは私より何歳も年上だ。 やっぱり先輩は精神的にもタフだなあと思った。
 
 
「ところで、あなた自身が気付いてるはずだし、私が言うべき事ではないかもしれないけど…」
 ハツミさんが遠慮がちに口を開く。
「分かってます。 お客さんは、お魚より私を見ているんだって」
 世にも珍しい金属の身体の少女が、潜水具無しで水の中に潜っていれば、最高の見世物になるに決まっている。
 ガラスの水槽の中、ショーケースに閉じ込められてしまったような恐怖を感じた事も、一度や二度じゃない。
「でも…それでも、私は水の中で仕事がしたいんです。 そして、また自由に泳げるようになりたいんです」
「泳げるように?」
「はい。 実はその事で、相談があるんです」

 

 

 

「今、私を主役にした新しい水中ショーの企画が持ち上がっているんです。 それで、もし私がその主役を
引き受けるなら、ショーのための装備として、私に水中用スラスターを取り付けてくれるというんです」
「スラスターって、私たちの背中に付いてるやつの水中仕様みたいなもの?」
「はい。 それがあれば、また水の中を泳げるようになれるんです。 それも、生身の身体だったときより、
ずっと自由自在に。 でも…」 
「そのためにショーの主役になれば、さらに多くの観客の視線を受ける事になる、というわけね」
 ハツミさんが腕を組む。
 けれど、サチさんの反応は違っていた。
 
「いいじゃない。 やってみれば」
「えっ?」
「見世物なんてネガティブなイメージで考えないで、役者になるって考えればいいの」
「私が…役者に?」
「スラスターを装備できるユカリさんにしか出来ない演技があって、その演技無しで成り立たないショーがある。
おいしい話じゃない」
「確かに、そうですけど。 でも…」
「たとえ、その身体になってしまった事が、悲しくて不本意な事でも、その身体を自分のために
利用しちゃいけない理由なんて、どこにも無いんだから」
「そうね。 違法捜査が得意などこかの警察官みたいな例もあることだし…」
 急にハツミさんも肯定的になってきた。
「でも、その、役者って誰でも向いてる仕事じゃないですし…」
「それこそ心配ないわ。 だって、すっごく綺麗だったもの、さっきの熱帯魚と戯れるユカリさん」
「そ、そうですか?」
 思わず頬が緩む。
「もちろん。 よし、それじゃあ早速、主役引き受けますって伝えてこないとね」
 私の気が変わらないうちに、だろう。 サチさんは私の肩に手を回すと、そのまま企画室へと歩き出した。